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21世紀COEプログラム:災地で聞いた生の声
平成16年台風23号被災地保健師の1年後の振り返り ■被災3ヶ国への初動調査の実施
パキスタン地震時の被災者受け入れ病院の体験と対処 
インドネシアにおける1年後調査報告の概要
タイにおける1年後調査報告の概要 ■スリランカにおける1年後調査報告の概要
延岡市竜巻災害による健康問題の現状
宮崎県の台風14号−水害から生じる健康ニーズには何があるのか?−
福岡西方沖地震の初動調査−自治会や住民を主体とした仮設への転居−

被災3ヶ国への初動調査の実施
 

インドネシアにおける初動調査報告(報告書の抜粋)

 日本看護協会(JNA)と兵庫県立大学21世紀COEプログラム(COE)が共同で、インドネシア、スマトラ島沖地震と津波被害の現状を把握し、最大の被災地であるバンダ・アチェ市で災害看護初動調査を行った。

 
<S病院訪問>
 アチェ州の病院。以前は400床が現在は200床で稼動した。ここは被害を多く受けた4病院の中の一つである。国際交流看護協会の研修を受けた4人のNsが勤務し、日本からはNPOや病院から支援、その他合わせて10団体以上が活動していた。

 インドネシア看護協会の協力を得て30名以上のNs(看護師長、係長)が週1回の定例会議の時間を利用し約40分の話し合いに参加してくれた。
開口一番「今までに多くの人が尋ねてきたが、何もしてくれなかった」と言われる。 どんなことを訴えてきたが聞くと「自分の家が欲しい」といっていた。家の半壊、全壊の問題を抱えるNsはキャンプで35%ほど(n=200人、無回答23名、3月1日のデータ)いた。 その他、ユニフォームの支給、病院までの交通手段としてのオートバイの供与を希望した(以前はオートバイで通勤していたが、今は公共バスである)。
災害後3ヶ月が経ち、これまで一生懸命働いてきたが、何もインセンティブが無いため、モチベーションがあがらない。
今後専門医へのインセンティブ(7、500、000ルピア)、医師は(5,000、000ルピア)払われる予定であるが、Nsへのインセンティブ(2、000、000ルピア)については何も話が出ないことについて不満を持っていた。その他トレーニングを日本で受けたい。ICUや透析、小児、助産、内科、呼吸器など最新技術を日本で学びたい。アチェ州でのNsへの数日のトレーニングでは満足していないようである。
 
 
S病院看護部長と面談
  同病院の看護師の被災状況についてリストにまとめられていた。津波以前の看護師在職者数は397人であるが、津波後死亡した看護師が42名、230名の看護師が被災者リストに名前を載せている(=生存が確認できている)。125名の看護師からリストが提出されていないようだった。

 今後120名の新人看護師をリクルートしていく予定で現在までに50名リクルートしていた。
同病院では被災者看護師を被災度合いに合わせ看護師の4つの問題カテゴリーで分類していた。
   (a)全てを無くした(家族ともの両方)看護師
   (b)1人また2人、両親や兄弟を無くした看護師、
   (c)全てのものを無くした看護師
   (d)家が半壊または全壊した看護師

現在の活動として、メンタルヘルスケアのカウンセラーが看護師の心のケア(マレーシアNGO)を行っているようだった。4月にWHO主催のトラウマコースを開催する予定でまた、数種のトレーニングも開催されており、アメリカのNGOやオーストラリアのNGOがサポートしていた。研修原案はJAWAよりきた看護師が作成していた。

 看護師用のメンタルコースは看護師の60名が修了している。現在は手術、ICUトレーニング中であるが、NGOがトレーナー費を払うが、参加者の食事代を払わないため、継続できるかはわからない→支援して欲しい。 その他のコースはローカルNGOと国際NGOがタイアップしている。
しかし、看護記録、小児、チームナーシングについて、支援する団体がいないため支援して欲しい。今後同センターを拠点に地方看護師の研修を行っていきたいと考えている。
看護師のユニホームが不足おり寄付の希望が挙がっていた。
 
 
<M病院>
  津波前にあった病院は全壊しており、市の衛生局を利用し3月10日より開業している。津波前は60床だったのが現在は40床となっていた。看護師は津波前は66名(55名が病棟)、津波後は36名(19名が行方不明)で、加えて、ボランティア(医師、歯科医など、看護師はいない)が他州より駆けつけている。インドネシアローカルNGOが中心になり、国際NGOの支援を調整する。現在はオーストラリアNGOが関わっている。

 一日100人の患者がきて、感染、風邪、肺炎、かゆみや小傷が見られる。問題は安全な水が確保できないことである。水道はないし、トイレは一箇所だけで、スタッフ、患者のためには足りない。看護師にとって家がないことが一番の問題となっており、その他、治療のための機材、資材もない。被災者である看護師が、看護師として働かなくてはならず、ストレスは強い。

<J避難キャンプ>
 Gampong Jawaはバンダ・アチェ内の海沿いの村であった。同村出身の看護師がキャンプのまとめ役を行っている。彼自身両親を無くしている。津波により全員が避難キャンプ生活になる。以前は散々していた村人が、2ヶ月前より同村に集まり。当初106家族であったが、117家族になった。
また他の31家族、68人はこの地に納まらず、J村跡地でテントを張って生活している。バラックに移りたくは無い。村の跡地で土地整理をして、また住みたい。住民の60%が漁師、10%が公務員、10%がプライベート会社勤めであった。
タイにおける初動調査報告(報告書の抜粋)
2006年3月25日〜2006年4月1日
 
<被災現地の状況>

(1)病院の状況
津波発生から48時間はほとんど外からの応援がなく、不眠不休で治療・看護に当たった者が多かった。2日目以降になると、タイ国内外からの救援が入った。外国からの救援隊は主に、自国の患者の治療と国外への移送を行っていた(日本からの救援は別)。バンコクからは精神ケアの専門チームも到着し、心のケアにあたっていた。

  水や日用品、食料の不足は直後一時的に問題になったが、その後はスムーズに全て無料で供給された。医薬品についても、直後は一時的不足の状態に陥ったが、救援隊が持参したものやその後供給されたもので対応できた。ライフラインの中断はなかったが、現地との連絡は電話が通じづらくなり困難であった。

 直後の対応として、訪問した全ての病院で次のような問題が指摘された。
  ・多数の被災者受け入れで混乱したこと
・外傷の治療では早くに縫合してしまったため創部の感染を引き起こし再切開・縫合となったこと
・外国人観光客への対応でコミュニケーション上の困難があったこと
・被災者の心の問題への対応(不眠、不安、食欲不振等)が求められ、難しかったこと
・タイ人の多くは津波直後に山中に逃げ込み、数日間降りてこない者も多かった。そのため、創部の感染が悪化したものや肺炎を悪化させて者がいたこと
 
 ケア提供者自身については現在のところ心身の健康問題は顕在化していない。今回の津波被害はほとんどが海岸近くで発生しており、病院のある市街地は全く被害がなく、病院職員の中に自宅が被災したり、家族を失ったものが少数であった。
そのため、「自分たちは被災者ではないので大丈夫」との意識が強い。多数の被災者のケアにあたるという通常を逸脱した状況を体験していても、看護師として当然、しかたない状況であるという認識で、心の問題を認識するに至っていない。

(2)仮設住宅等の状況
 仮設住宅は全て供給が完了しているわけではなく、テント生活の被災者もいる。一方で、土地を所有している被災者に対しては、政府の支援ですでに恒久住宅が建設供給されている(恒久住宅1棟あたり10万バーツ必要)。

 避難は主に村(コミュニティ)毎になっており、元のコミュニティ機能が維持されている場合が多い。電気、ガス(プロパン?)、水(飲料水はペットボトルで支給)は問題なく供給されているが、一部地域では安全で清潔な水(生活用水)の確保が難しいところもある。
被災者に共通の問題としては、

  ・仕事を失い(漁民は舟と漁場を失い、観光業従事者は仕事場を失った)、収入の道が断たれた
・土地を所有しないものは、住宅の再建が困難
・津波のショックと希望の喪失により、精神的に不安定
・この先どのように生活していけばよいかとの悩みを抱えている者が多い
・仮設住宅の生活で落ち着かず、眠れないという訴えも多い
・学校に行けなくなった子供も多い。理由は学校そのものが倒壊したことや避難場所近くに学校がないなど。
・健康問題としては、
・直後は下痢がひどかった。
・夜眠れない、津波の再来を心配/恐れる、子供は夜鳴き等の精神的問題もでている
・妊婦の中には流産や胎児死亡の例もある(件数は不明)

 

(3)現在の看護師の活動
 タイには日本のような国家資格の保健師はおらず、地域保健は保健センターに勤務する看護師および公衆衛生士もしくは、病院の地域保健科の看護師が担っている。今回の津波では、多くの保健センターが被害を受け、病院の看護師が地域の被災者へのケアも行っているケースが多いようである。しかし、活動は地域ごとに様々であり、次のような活動例について情報を得ることができた。

  ・ 仮設住宅に看護師の駐在する場を設け、避難住民の健康管理、仮設住宅の衛生管理、健康相談などを行っている。
・ 健康相談では、家族計画(避妊)、軽微の感染症(目、鼻、のどなど)、軽微の外傷などが多い。その他、水質検査等も行っている。
 

 現在の最大の問題は被災者の心のケアである。バンコックなどから精神看護専門の看護師チームが来て活動していたこともあるが、現在は現地スタッフにゆだねられている。心のケアについて知識と技術を十分持ち合わせていないと感じている看護師が多く、心のケアについて学びたいという要望が高い。

(4) 被災者の住宅再建・生活再建の支援
 被災地域が広範囲にわたるため、支援の量と質には大きなバラツキがある。特に、小さな漁村では、多くの住民が自宅や仕事を失っているにもかかわらず、政府・NGOの支援がほとんど入っていない地域がある。
そこで、タイ看護協会としては、看護協会主催で基金をつのり、Kapoe近くの被災者を直接支援し、住宅の提供等をしていきたいと考えている。

スリランカにおける初動調査報告(報告書の抜粋)
2005年3月24日〜3月30日
 
<津波後の被災状況>
 
 スリランカが津波被害に見舞われたのは2000年ぶりのことであった。自然災害として、2、3年に一度は洪水や土砂崩れが起こるがそれによる避難者は数万人単位であり、今回のように3ヶ月経っても50万人の避難者がいるような災害の経験はなかった。

 被災者の増加に影響した要因としては、12月26日がクリスマスバケーション中であり更に日曜日であったため、多くが沿岸地域に観光に訪れ、沿岸地域の人口が増えていたことが挙げられる。
また、多くの人々が災害について無知であったこと、病院までの交通手段がなかったことも被災者の増加につながった。ただ、多くの子どもは登校日でなく家にいたため、これが子どもの被災者の減少要因となったと考えられている。

 供給物資に関しては、被災後2、3日は海外からの物資の供給がなかったため、地元のボランティアにより食料、衣料などが配布された。しかし、海外からの物資が届き始めると食料、医薬品の問題はなくなった。

 コミュニケーション手段であった電話は、使いすぎのため不通になることが多かったが、携帯電話は通話可能であった。電話会社のボランティアにより、30分ずつ無料で通話できるシステムも見られた。

 生活環境としては、トイレの衛生状態は未だ悪く、設備も不十分である。また、現在大きな課題となっている住居に関しては、未だ住まいを続ける人々が多く、テントは暑く(保健省の調査により、テント内室温40℃)、雨季には耐えられないという不満より仮設住宅を希望している。これを踏まえ、政府は仮設住宅を建設する土地の確保を検討している。

 被災当初より懸念されていた伝染病は、被災以前より水の衛生状態がよかったことに加え、早期より浄化された水の配給が行われたことで、大きな発症は見られなかった。

 被災者の健康・生活問題としては、身体的負傷の他に、今後どうなるのかという心配、家族を失った被災者の精神的問題も見られている。精神的問題に対しては、海外の専門家により一般の被災者に対してカウンセリングなどが行われている。また、被災地域が慢性的な貧困地帯であるため、元々の経済的問題に加えて、被災による失業が一層の経済的問題を引き起こしている。

 災害対応を振り返り、情報入手体制の整備、災害時の交通状態の整備が必要であったと感じている。
 
<被害の概略>
 
派遣元病院 ---

  施設の直接被害はなかった。被災直後に25人が運び込まれ、その後2日間に被災による患者が急増する。津波により靴が流されたことで足の損傷が多く見られた。

派遣先病院 ---

1 :M産科病院
 津波被害は師長が津波を目で見て気づき、5〜10分後には津波が到来していた。施設の直接被害として、水、電気は絶たれ、津波被害により415床あった病床が95床しか使用できなくなった。死傷としては、保育器に収容していた早産児1名が保育器の転倒より死亡した。 入院患者は、死ぬのではないかと言って大騒ぎをし、看護師が声掛けをして病室を回った。多くの妊産褥婦のショック状態は続き、1.5ヶ月程転院の希望が多かった。
ただ、流早産の増加は見られず、出産時もひどく騒ぐなどの変化はなかった。多くの職員は、恐怖心のため働きたくないと言い、家族親族を失った職員の多くが精神的問題を抱えていた。

2 :G総合病院
 施設に少し水が入ってきた程度で大きな被害はなかったものの、医師2名が死亡した。また、被災2、3時間後より多くの患者が来院し混乱していた。看護師の多くは家族が心配なため帰りたいといい、特に勤務時間終了時に多く訴えられた。 しかし、数時間すると多くの看護師が病院へ戻り、また外部から派遣された看護師、近隣に住む住民の援助も受けることができ始めた。薬剤に関しては、貯蓄があり、翌日の配給まで十分であった。被災2、3週後より通常業務が行えるように落ち着いてきた。

3 :T 病院
 施設の直接的被害はなかったが、sister1人の遺体は未だ発見されていない。緊急時の医療、看護に関する教育は受けていたが、物品不足、経験不足で混乱状態が続いた。過剰な勤務が続くが、それに見合った給与の支給はなかった。

 重症度が高い多くの患者は直後に死亡したため、現在まで継続して治療を受けている患者はいない。また、多くの遺体が病院へ運び込まれたため、患者は早期退院を希望し、長く入院している患者はいなかった。

4:H 病院
 看護師1名、医師3名が死亡し、その他の職種10名が死亡した。施設の直接的被害としては、断水のため顔が洗えず、多くの商店が破壊されたため食料がない状態であった。また、寮近くが遺体安置所になったため職員は寮に戻れず、3日間着替えることができなかった。この状況が数日続く間は、その状況で我慢した。しかし、当日夕方よりコロンボから派遣医療チームが到着し始め、助かったという。

 負傷者としては、手足の骨折、たくさんの水を飲んだ患者が多く見られ、死因としては溺水より打撲や感電が多かった。津波後から3ヶ月間継続して入院している患者は3人で、外来でリハビリを受けている患者もいる。被災者の中に感染症の発症は見られなかった。
 
<被災者の健康問題>
 
(1)過去に見られた問題
  (a)被災者全般に見られた問題

1. 身心の状態
  足の損傷、手足の骨折、たくさんの水を飲んだ患者、打撲や感電による死亡などが多く、中には3ヶ月間入院を要する患者、現在もリハビリを受けている患者もいる。また病院で被災した患者のショック状態は続き、その後1.5ヶ月の間の転院希望が多かった。

2. 生活環境の悪化
 数日間は断水、停電、食料不足が見られた。

(b)看護師など医療提供者に見られた問題

1.勤務継続困難
 恐怖心が強く、被災した病院では働きたくないとの訴えがあった。また家族の安否が心配なため、勤務時間終了後に帰りたいとの訴えがあった。
 
(2)現在も見られる問題
  (a)被災者全般に見られる問題

1. 精神的問題
 被災した子どもの中には、学校で津波を体験した子もおり、その中には怖くて学校に行けなくなった子もいた。また津波被災以後、精神科を受診する患者数が急増し、その多くが訴えることは、家族が亡くなったこと、今後どうなるのか、次の災害にどう対応したらいいのかなどの心配や不安である。

 さらに妊産褥婦で家族を失い、妊娠、出産、育児期における家族、親族から の必要なサポートが得られていないこと、またそれに伴う精神的問題が見られている。また、分娩に必要な物品の不足、食料不足による摂取栄養の不足も見られている。

2. 生活環境の悪化
 トイレの衛生状態の悪さ・設備の不十分さが続いている。また、仮設住宅などテント以外の住宅の希望が多いが、仮設住宅を建設する土地の確保を検討している段階である。

3. 経済的問題
 被災による失業が、元々見られた経済的問題に加わり、一層の経済的問題が引き起こされている。

(b)看護師など医療提供者に見られる問題
 処置にあたった医療者の中には災害への恐怖心や、遺体から放たれる臭い、助けを求める声、波に飲まれていく人々の光景、助けてあげられなかった罪悪感が継続して頭に残り、忘れられず、不眠が1ヶ月近く続いたものもいた。
このような状態に対して、積極的な対策はとっていないが少しずつ眠れるようになったという。ただ、現在も時々思い出し、今でも涙が出て、津波によって建物が破壊された場所にはいけないという。
また、再度津波が来るかもしれないという心配、家族や家に関する心配から仕事が手につかない状態の人もいた。このような精神的問題が見られる状況であるが、どこの病院においても医療者にメンタルケアの必要性があるとは認識されていなかった。
 
<病院としての活動>
 
(1) 医療者派遣元病院
   災害拠点病院となり、津波直後から医師、看護師など25人を25グループに分け、4〜6日毎に被災病院に派遣した。派遣は、要請を希望する病院を保健省が把握し、そこからの要請を受けて行うようになるが、そのシステムが確立する以前は、地震発症当日の夕方より、テレビから情報収集した医師、助産師、看護師の医療チームがボランティア車両に乗り込み、生理用品など必要物品を持参して現地入りした。
そこでの活動は、緊急処置、負傷者の処置必要性の判断、慢性疾患への対応、物品の配給、カウンセリング、精神的なトラブルで勤務できない看護師の代替であった。3、4週間継続した後には、災害急性期を脱し、積極的には行っていない。

  災害急性期以後、災害に関する知識を住民に普及するため国立病院に勤務し、スリランカ看護協会に属する看護師はシンハラ語で記載した災害への対策、今後予定されている対策プログラムについて記載したパンフレットを作成し、スリランカ看護協会に所属する看護師、NGOに所属する人々に配布している。
 
(2) (2) 医療者の派遣を受けた病院
  (a)M産科病院
 津波1時間以内に近隣から多くの被災者が車、救急車で運び込まれ、軍人や僧の手伝いも受けつつ、医療を提供した。挫傷、打撲、骨折が多く、重症度が高ければ他院へ搬送した。津波被害により病院機能が維持できないため、4km先のTeaching Hospitalへ病院機能を移転させ、2月12日から婦人科外来のみ再開させた。
また、現在95床のベット数に200人の患者がおり、2、3名で1ベットを使用している。これより、3月28日よりドイツの支援を受けてスイスが設立したテントの仮設病院(Mobil Hospital、100床)が稼動する予定である。病院より近隣の避難所への看護師派遣はなく、それらはMOHが行っている。

(b)G総合病院
 活動としては、被災直後より来院した患者を死亡、要手術、要処置に区分し、医療を行った。その処置としては、たくさんの水を飲んだ患者が多かったため、水を出すような処置を多く行った。また、当日の夕方より3日間は終始骨折、頭蓋打撲などの手術を続け、被災後1週間続いた国内からの派遣医師、看護師の援助を受けた。

(c)T 病院
車椅子、ストレッチャーなどの物品が不足しており、活動としては先ず、病院全職員で患者の移送、遺体の処理を行った。それらの物品は、被災後しばらくしてから寄付され、届けられた。処置としては、重症度の低い患者のみ行い、重症度の高い患者は転院させていた。

(d)H 病院
 職員は家族の安否を心配しつつも、多くの死傷者が運ばれてくるため、病院で勤務せざるを得なかった。勤務でない看護師も多くが病院に駆けつけ処置にあたり、多くが100時間休みなく勤務した。職員の中には、自分の子どもなど家族を病院に連れてきて勤務する人もいた。
 活動としては、死傷者を病院へ運ぶ手段がなかったため、多くの医療者が負傷者を探し出し、病院へ連れて戻った。負傷者は、木の中に埋まっていたり、木の上で立ち往生していたため、木の中から救い出したり、木に登り救い出した。
 災害急性期を脱した後の活動としては、被災後2週以後にも継続している異常な抑うつ状態を持つ被災者がどの程度避難所にいるのかを査定するため、医師を避難所へ派遣した。病院内にカウンセリングが行える医師がいなかったため、スリランカ国内からカウンセリングが行える医師を募って行った。すると、PTSRでなく、PTSDを抱える被災者が多くいたという。
 今後の課題として、今回の被災時には余裕がなく、院内各部門が経験した災害医療体験の共有を行っていないため、今後行っていきたいと考えている。

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